どうだったっけあの頃「町屋の明大明治の割烹親父」2009年11月(DSS:ルート50)
【町屋の明大明治の割烹親父】
学生時代に、こなしたバイトは全部で3つ、飲食店が2軒と土木作業が1軒だった。ある日、学校の教務の先生から「居酒屋でバイトしたことあるんだって?」と当然聞かれ、
「ありますよ。」 と答えると、「そう、実は私の知っているお店でバイトしないか?」ときりだされた。「えっ!」とびっくりしていると「実は親戚のお店でさ、割烹なんだけど、君が居酒屋でバイトしていて辞めたと聞いたんだけど、ちょうどお店で人が足らないって言ってたから、どうかなと思ってさ」と言われ、教務の先生が言うんだから変な所じゃないだろうと「どこにあるんで?」と聞くと、「日暮里の先の町屋」といわれ「そこどこにあるんですか?」聞き返し地図で教えてもらったのが「町屋」を知るきっかけである。
その後、話では、お店の仕事は以前の居酒屋さんと同じであるが、お店はこちらの方が広い感じあり、チェーン点ではなく、名のある板前さんのいるお店のようだった。お店は割烹でもあるが、表通りと裏通りの2つに分かれていて裏通りから入るお店は、カウンターがコの字にあるだけで20人もはいると一杯になる、主にそこでお客さん係 として働くアルバイトであった。
学校が4時で会わると京王線に乗って新宿に出て、山手線で日暮里に向かい、京成線に乗り換えて「町屋」につくと、駅から3分ほどの商店街の中にあった。お店の名前は「三忠」という名前だったと思う。そのお店は以前の居酒屋さんと違って家族で経営をしていて2代目か3代目で、経営者の親父さんは、明大明治高出身明治大学で大の巨人ファンの江戸っ子頑固おやじという感じがする人であったが、笑うと金歯がきらりと光る実は優しい親父であった。
お店を手伝う時は、決まってカウンターの方で耳にボールペンを挟んで料理を運ぶ姿は今でも思い出すと、何とも言えない飲み屋の親父という堅苦しさのない感じで素敵だった。甲子園の季節になると高校に指導に行くほどで、高校では怖い先輩として名をはせていたようだ。
お店での仕事の思い出は、意外に少なく、 一度、板前さんが風邪でお休みの時に、エビフライの注文があって、見よう見まねで作って出したところ親父さんに「駄目だこれ」といって作り直されたこと。若い見習いの板前さんが魚(ぶり)を下ろす練習の為に、自分で買って下ろした後、みんなに御馳走してくれたこと(魚を買わなければ自由に練習できないのかと驚いた)。そして親父さんと髭の板さんが競輪で賭けををしていたことくらいしか覚えていない。
卒業後、何年かたって「町屋」にいったが、街が変わっていてお店がわからないかったが、その後お店がなくなっていたような覚えがある。「町屋」の街の思い出は全くないが、親父さんの角ばった顔とおかみさんの優しい笑顔、髭の板前さんと見習いの若い衆の顔しか覚えていないがなぜか忘れられない街であり、上京して初めて人の温かみを感じたところでもある。
お燗をつけるのを初めて覚えたのがこのお店でひと肌感覚と熱燗の違いを知った。実習に行くまではこの店で働いていた。20才、今から30年以上も前のことだが、親父さんが生きていれば是非、会いたいと思っている。「あの時はお世話になりました。」